みちしるべ
病気になった「意義」を共に考える
From 大木 桃代(文教大学人間科学部心理学科教授・東京大学医科学研究所非常勤講師・東京都国分寺市教育委員会委員 全珠連学術顧問)
私は大学の教員として学生の教育を行うことに加え、病院において公認心理師・臨床心理士として、がんなどの身体疾患に罹患された患者さんやご家族のカウンセリングに長年携わっています。
患者さんとお話しする中で、時々返答に困る問いを投げかけられることがあります。
「何で私は病気になってしまったのでしょう」という言葉は、その最たるものです。
患者さんも私に解答を求めてはいらっしゃいません。
でも、つらく悔しく、悲しいその思いを、口にしないではいられないのでしょう。
当時50歳代だったAさんもその一人です。
Aさんはがんに罹患され、他院で治療を受けていましたが、3度の再発の後、私の勤務する病院に治験への参加目的で転院されてきました。
Aさんは前の病院で「もう治らない」と言われ、「これ以上自分はがんばれるのだろうか」と気持ちが落ち込んでしまったそうです。
そして私がカウンセリングを担当した最初の日に、先の言葉が出てきました。
そこで「私にもわかりません。でも、よろしかったらそれを一緒に探していきませんか」と申しあげ、そこからAさんの「病気になった意義」探しが二人三脚で始まりました。
毎週のカウンセリングの中で、Aさんの人生、特に病気に罹患してからの思いや選択を振り返りました。
やがて、治験に参加することで、たとえ自分自身には効果がなかったとしても、今後の医療の発展や新薬開発に貢献できたのが、「私が病気になった意義」との言葉がありました。
また、私の大学で将来心理職や福祉職を目指す学生たちに、病気に罹患してから今までの気持ちの変化をお話ししていただきました。
Aさんも自分の経験が若者たちに何らかの影響を与え、将来に役立つと、喜んで引き受けてくださいました。
そしてがんと共存しながら、「今、自分にできることを精一杯やろう」「過去を見るのではなく、未来だけを見よう」と思うようになった、と笑顔を見せてくださるようになりました。
残念ながらAさんの病状は悪化し、自宅近くの緩和ケア病院に転院されました。
その後、次のような連絡をいただきました。
「来るときが来た、と思っています。ある程度、覚悟はできています。辛いのは、仕事も趣味もできなくなってしまったこと。何のために、今、生きているのだろうと考えました。結論は、友人やお世話になった方々に最期の挨拶をすること。そのために生きている時間なのだと思うことにしました。人生、いつかは終わるもの。でも死を恐れて逝くよりも、ちゃんと受け止めて逝きたいと思っています。学生さんへのお話がまだ元気なうちにできてよかったと思っています。あと少し遅れたらお話しすることができませんでした。これも私が病気になった意義の一つと、うれしく思っています」
私たちはいつかは人生の幕を閉じます。
そのときに、私が生きた証は何だろうと考えるかもしれません。
自分が納得した人生とするために、ときに自分の存在意義や人生の意味を考えてみてはいかがでしょうか。